3月の東京行きは大体一週間居ました。最長記録でしょうか。このまま、徐々に東京に生活の本拠をスライドさせていくのでしょうかね。こればかりは情勢次第なので何とも言えませんが。
終業後にサウナに行くと爆睡できることが嬉しくてたまりません。本当は、「○○したから、△△ができた」という条件が、無料で、なおかつ一人で手軽にできるものの方がよく、もっと言えばそういった条件すら不要になる領域になると更にうれしいです。
これはどういうことかというと、こういった条件付きの幸せは、前提となる条件に依存している、という構造を必然的に抱えているからです。
例えば「ジムに行って運動したから、気持ちよく生活できる」というのは、何らかの要因でジムに行けなくなって運動できなくなると、条件が成り立たなくなりますから、「気持ちよく生活できる」の部分が破綻します。
この条件部分の難度が高ければ高いほど、依存度が高まります。「かっこいい車に乗っているから、いろんな人にすごいと言ってもらえる」「私は美人だから、多くの男に言い寄られて嬉しい」な~んてやつですね。こういった場合、条件付きの幸せを維持するために、すさまじいコストを支払って、幸せを維持せざるを得ません。ですからブランド品の類はいつまで経っても売れ続け、美容整形も客足が途絶えることはないのです。
「たくさんの人にちやほやされるから、私は幸せ」なんてのは最悪の極みです。条件部分に他人を持ってくると、「他人は絶対にコントロールできない」という世の真理に反するわけですから、必ずその幸せは破綻します。この話はここまで。
東京で一人暮らしをしていると、外食の誘惑が強く、というか通勤路にスーパー・マーケットが無いせいか必然的に外食や中食中心の食生活になります。すると炭水化物を避けては通れません。ということで糖質カット生活は一時期お休み、おなかがみるみる出てきて、三連休最終日に体重計に乗ったら久々に70kgの大台を回復していました。別にこれは筋肉が増えたわけではなく、腹の肉が増えたわけですから、うれしくはありません。
東京宅近くと職場近くの新聞配達店がどちらも閉店になっていて、紙の新聞離れを感じます。インターネットだけでしか世界を見ないこの2年間だったので、こうして実際に触れるといよいよヤバいのだな、と思います。
職場のミーティングで、「この部署の人たちは前提として「今日よりも明日の方がよりよいものを作りたい」「今日よりも明日の方が良い暮らしをしたいので色々改良に取り組んでいこう」という基盤を共通して持っていると思うんですけど、私も最近気づいたことで、どうやら世の人々の割と多くはそういった意識はなく、「今日が良ければそれでいいや」「この場をしのげればどうでもいいや」「しょせん仕事なんだから何を言われても別に成長とかどうでもいいや」という人が結構な数いるんですよね」という話をしたら驚かれました。仕事でも大変狭い人間関係の世界にいるので、こういうことがしばしば起きがちです。
寄せ書きについて。昨日の特急の時間待ちで駅前のLUMINE(新宿とか有楽町とか池袋だとビビるんだけど、北千住とか大宮だと「所詮北千住だし・・・」「大宮だし・・・」みたいな感じで、入っている店舗、売っている品物自体は同じなのに安心感がある)で時間をつぶしていたら、寄せ書きセットみたいなのがLOFTで売られていて、もう金輪際寄せ書きとは無縁の人生を送れるだろうことに心から感謝しました。
寄せ書きが大嫌いです。書く方は「世のしがらみよのう」と適当なことを書いておけばそれでよいですが、もらう方が本当に嫌で嫌でたまらなくて、ろくに見ずに処分しています。お義理コメントみたいなのを別に話したことない人からもらっても仕方ないですからね。
教育実習に行った最終日に寄せ書きを担当クラスの全員からもらったのですが、いまだにその封筒を開封もせずに、実家の引き出しの奥底にしまってあります。実家の荷物を処分する数十年後ぐらいに存在を完全に忘れて発掘して、その時に見ればよいと思っています。
普通に花束だけもらえればそれだけでものすごく嬉しいので、今度から寄せ書きをもらったらその場でフリスビーにして投げようかと思うくらいには嫌いです。
まあ、これだけ寄せ書きが世に蔓延しているということは、それをもらって嬉しい、という人が一定数いるんでしょうね。教育学の大学院の同級生は、確かに研究室の自室の机に、教育実習の時の寄せ書きをちゃんとスタンド付きで飾っていました。私は「なにその拷問?」と思っていたので、まあ、こういった社会不適合者が教員にならなくて良かったですね、という感想しかありません。
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