先週購入した眼鏡が届きました。子どもの時同様、金属ベースのフレームに戻りました。やっぱり鼻当てが調節できるタイプは最高だぜ!こっちの方が鼻当て跡が残らない可能性がありますね。単純に、レンズ幅が小さくなったので重さが抑えられている(屈折率の関係で、横にレンズが長くなればなるほど重くなる)のかもしれませんけど。
メルカリで先週から某マンガを出品していたのですが、刻んで刻んで値下げしていたら売れました。送料と手数料を割り引くと、ブックオフで手放すよりは多少はマシ、といったレベルでした。定価の半値くらいですね、戻ってきたのは。
メルカリで物を買ったことはあっても売ったことはなかったので、たまたま家にあったプチプチでくるんで、たまたま家にあった封筒に入れて近所のコンビニへ。スマホのバーコードを店員さんに見せて、送り状を貼って終わりです。クロネコヤマトは間違いなく世界を変えた、と思いました。圧倒的な「仕組み」の力ですね。
Twitterを見るのはリプライに反応する時だけで、見ても一日に1~2回程度。まったく頭にない日すら多くなってきました。なので夜にリプライした返事が翌日の夜とかになってしまいますがご了承ください。
で、スマホから返信するとWeb版を使っているのでTLを見ないといけないんですが、びっしりとRTで何やら書いている人がいて、ああ、いまだに何かに憤っている人がいるんだなあ、と2020年、2021年前半までの自分を見るようで、むずがゆいというかおもばゆいというかそんな気持ちになりました。
わたしのだいすきなディストピア小説であるところのオーウェル『1984年』に「二分間憎悪」というのがあります。詳しくはリンク先のWikipediaを見てね。
まあ、これと同じようなことをTwitterでやっていたのがかつての自分であり、それをまた自分のタイムラインで見てしまっている、というだけの話です。
問題は、その憎しみはその人に届くことは(その人が著名人ならなおさら)まずなく、無意味どころかマイナスになる、ということです。
様々なことをリアルだけではなくインターネットで学びました。Twitterよりも有益でかつ「聖者ではないか?」という人にも知り合うことが出来ました。最近はやりの宗教的なアレではありませんよ。
あるサイトで、「人生で最も大切なことのひとつは、「人生は向いている方向に進む」ということです」と書いてあって、その通りだな、と思いました。
朱に交われば赤くなるというのは至言であり、普段接している情報や意見に人の思考思想信条は左右されます。ですからネガティブな言葉に浸っていればネガティブになりますし、攻撃的な言説に取り囲まれていれば自然と好戦的になります。
何かで読みましたが、脳の内側の爬虫類脳は動詞の主語を識別しにくいorできないのだそうです。ですから、悪口や憎しみの言葉は、常に自分に返ってくる。だからこそ、悪口はいけない(=身を亡ぼすから)のですね。
最後に、私をTwitter依存から救ってくれた石徹白未亜さんの『節ネット、はじめました。』から引用して終わりにします。
テレビと違って情報が残るネットでは、同じことで怒っている人に出会うのも簡単です。被害者の支援活動を行うなど、義憤が建設的な行動につながればいいのですが、SNSで世相を皮肉ったコメントを残す程度では、世の中は1ミリたりとも変わりませんし、面倒臭い人だと思われるだけです。義憤のほか、「男VS女」「既婚VS未婚」「金持ちVS貧乏」「高学歴VS学歴なし」などの単純な二項対立もドツボに陥りやすいので、好みの二項対立には近寄らないように気をつけました。近づいて少しでも見たら最後、絶対クリックしてしまう自信が、わたしにはあります。(P106)
0 件のコメント:
コメントを投稿