SNS疲れについて

2021-06-24

説明

最終更新:2021年9月2日

高校生の頃から漫然と、かれこれ10年以上Twitterを使ってきました。

数多くの出会いがあり、有益なことがあり、間違いなく人生の一部と思えます。

しかしながら、ここ数週間、SNS疲れに悩まされています。

完全に止めることはありませんが、しばらく距離を置こうかな、という気持ちです。

ちなみに他のSNSはやっていません。(アカウントはあるけど休眠状態)

SNS疲れの要因

・いいねに怯える

人は数字に弱いです。

ソーシャルメディア会社はそのことをよく分かっています。

理屈では分かっているのに、「100フォロワーより1000フォロワーのユーザーの言っていることの方が信頼できる」「100万再生からが人権(ネトゲ用語)、1万以下とかゴミかよw」「あ、10いいねもらえた!嬉しい!→いいねがもらえないと嬉しくないという裏返し」といった形です。

そもそも、いいねの意味合いはかなり多義的です。

  • 単純に「このツイート面白い・良いこと言ってんね〜」でも、
  • 既読の意味でも、
  • あるいはリプライを終わらせる目的でも、
  • 「お前を見ているぞ」の意味でも

使います。

人によってはやたらめったらいいねを振りまく人もおり(ふぁぼ爆、なんて言葉がありましたね。英語ではなんというのでしょうか?)、しかし数字上は全て「1いいね」なわけです。

そういった数字に振り回されている、ということに自覚的であるのに、それでもその数字を気にしてしまう。

これはもはや強迫観念です。ということ自体にも自己嫌悪してしまいます。

見せることが主目的になり、自分が書きたいことを書けなくなる、他者に忖度してしまう、というところです。

これでは本末転倒です。人の求めることをやるのは仕事だけで十分です。

・エアリプが怖い

以前運用していたアカウントをやめたのは、エアリプで攻撃的に噛み付いてくる人たちが原因でした。

彼らは自尊心の欠如ということを見切ることができましたが、今運用しているアカウントでもそういったことがあります。

といっても、私自身にも非があり、他者に対して攻撃的な「とげとげツイート」をしているのでは?という反省があります。

たとえ事実として正しくても、それが人を不快にさせることがある、というところです。

不可知論者に神の存在をどれだけ説いてものれんに腕押しですし、狂信者に神の不在を説いたら戦争です。

それと同じようなことがTwitterという小宇宙でも行われており、エコーチェンバーを起こしやすいSNSではその傾向がさらに加速します。

・嫌な情報を見せてくる

Twitterも高校大学時代は良かったのですが、2020年から例の騒ぎ関連の内容をトレンドやら何やらに流すようになってきました。

広告も露骨に入れてきます。

検閲のお手の物です。ファクトチェックなるものも、客観性や科学らしさを装ってはいますが、結局は運営の主義主張に反するものを政治的に排除する「しぐさ」の一つに過ぎません。

そういったものは目に入るだけでも意識に沈澱していきますし、繰り返しの刷り込みは記憶を定着させる極めて効果的ややり方です。

そういうのにもかなり辟易しています。

これは公式クライアントを使わなければ済む話。

・果てがない(これはインターネットと同じ)

SNSはインターネット同様、無限に時間が溶けていきます。

普通の人は文字を読み続けると疲れてしまいます。

ところが、ごく一部、文字中毒とも呼べる人種が存在し、食事中に新聞や本を眺め、排泄中も張り紙の文字を追うタイプの人間が存在します。それが私です。

こういうタイプの人間は、文字を読み続けることに全く苦痛を感じません。

興味のあるジャンルだったらなおさらです。

昔でいうところの「本の虫」というやつですが、本には必ず終わりがあります。

ところがTwitterには終わりが事実上ありません。

この活字中毒者とTwitterとの相性は最強、いや最悪です。無限に時間が溶けていきます。

それだけならまだしも、意気消沈するようなネガティブな内容に反応すると、それに関連した情報が簡単にヒットし、それを掘っていくと更に関連が・・・という無限ループ。

社会不安をこじらせた活字中毒者の完成です。

このパターンで高校時代から何度自滅してきたことか。

今までかけてきた時間を概算したら泣けてきた

少なくとも1日2.5時間はTwitterしているとすると、2.5時間×365日×10年=9125時間。

1万時間の法則というのが、まことしやかに囁かれていますが、Twitterのプロなんかになっても何も嬉しくねえ

結局のところ

・・・とまあ、色々と思うところを書いてきましたが、結局のところ、「リアルが充実してないからTwitterやらSNSに依存する」のです。

というのはもう数年前から薄々気づいているのですが、認めようとしませんでした。

よくTwitterで過度にパートナーとの仲をラブラブアピールする女性がいますが、あれは不安の裏返しなわけです。

同じようなことを私もやっているわけで、Twitterにいつもいる人というのは、仕事でもなければ実社会不適合なのでは?という形です。

※不適合が悪い、という話ではありませんので念のため。

実名で名が売れて仕事につながるのであればメリットはありますが、そうでもない市井の人間は、やはり依存に気付いて自分をコントロールする必要があるな、と思います。

インスタを馬鹿にしているがTwitter民も同程度では?という感想です。

脳が完全に依存症になっている

アルコール依存症は否認の病と言われます。

同様に、インターネット依存症、SNS依存症も否認の病です。

ツイ廃と言われて嬉々としている大学の先輩後輩同級生を怪訝な目で見ていましたが、もはや自分がそうなってしまいました。

アルコール依存症は、「坂道にボールが止まっている状態で、一滴でも入れてしまうと坂を転げ落ちていく」もの、と『上を向いてアルコール』で小田嶋隆は語っています。

そんな彼ですら、スマホについては「一分二分の空き時間の過ごし方がスマホを見る以外に選択不能になっていくことの問題って、お酒飲んじゃった人間が、お酒に全部余暇を奪われちゃうってことと近い気がする」と述べているわけで。

思った以上に私(たち)はスマホ・SNS・ネットに人生をすり潰されています。

残された問題

しかしながら、Twitterをやめたら問題が全て解決するというわけではありません。

https://togetter.com/li/1646586

↑TwitterをやめるといいつつTogetterのリンク貼るのなんなの?という感じですが、こんなことはディストピア以外では存在しません。

Twitterをやめると、Twitterに依存していた自分がひた隠しにしていた根本問題に直面せざるを得なくなります。

先述の『上を向いてアルコール』で、小田嶋隆が

酒がもたらしているのは、勇気そのものではない。酒がそれを飲んでいる人間たちに提供してくれるのは、もう少し卑しいもの、すなわち「弁解」だ。

何かに依存するってことは、自分自身であり続けることの重荷から逃れようとすること

という核心をついているように。

ひた隠しにしていた根本問題、Twitterをやめたらリモートワーカー自粛生活で誰とも話す機会がない・・・やろうと思ったら永遠に人と話さなくて生活できてしまう・・・みんなどうしてんの?という根本的な問題、これを解決できない限りTwitter依存は終わらないでしょうし、繰り返しになりますが、「リアルが充実していればそもそもSNSに依存しない」わけです。


インターネットは有効に使えば、リアルの村社会ではなし得なかった交流が可能になるわけです。

しかし、私(たち)はあまりにも行き過ぎてしまいました。

インターネット、SNSに私(たち)が「使われて」しまっているのです。

自己紹介

Japan
sakurabar(さくらば)。1993年生まれ。修士(教育学)→中小企業でパソコンをいじる日々。ねこがすき。 お問い合わせはsakurabar0701あっとまあくgmail.comまで。 Twitter(@sakurabarss)のDMでも同じアドレスに通知が行きます。

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