ここ数ヶ月、「脳が焼けている」という表現をよく使います。それは、いわゆるデータやエビデンス至上主義的になってしまっている人・モノ、そして自分がそうだった、という自省から来るものです。
厨二病、高二病、大二病の大三元を華麗にこなして、その帰結として20代後半でも盛大にかましてしまい、今の自分があるわけです。さすがに「五十、八十、よろこんで」な年まで痛々しい感じであってほしくなく、その頃にはさすがに落ち着いていてほしいところです。
さて、本題に戻ると、タイトルの「論理と体感」ということです。どういうことかというと、ご存じの通り私はかなり論理偏重な生き方をしています。それは生存に対する恐怖心や自己肯定感の薄さに起因するんでしょうけど、要は生活の行動指針が論理に偏りすぎて、情緒や身体性を無理やり論理で押さえつけている、といった感じでした(です)。言語学を大学・大学院でやったり、仕事でプログラミング言語のコーディングに何年か従事したり、それ以外の私生活でも書き言葉による思考・コミュニケーション(SNSとかネットサーフィンとかね)がベースの生活です。
ところが、一つの真理として、これも何度も書いていますが、「言語は体感に及ばない」というものがあります。より具体的に書くと、「言語で表現できることには限界があり、非言語の体感でしか会得できないことがある」ということです。伝統芸能とかまさにそれですよね。
これが、人生のどこからか知りませんが、いつの間にか言語至上主義、というかもはや執着や信仰の域に達していた、強迫観念的な言語や論理への偏愛があり、それが生き方においてもいわゆる「脳が焼けている」としか書きようがない状態に陥ってしまう原因となっていました。情報・データ・エビデンス・有象無象の意見・その他その他が頭の中でオーバーフローしてしまった、といったところです。
長年の習慣から脱却するのは容易ではありません。だってそれ(言語偏重)しか知らないんですもの。ということで、どのくらい時間がかかるか分かりませんが、体感(非言語領域)を重視して生活していきたいですね、という話でした。
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