最終更新:2021年12月5日
逆張りは順張りの対義語、天邪鬼の類義語です。
私はまあまあ多くの事柄を逆張りで進めてきて、そのおかげか現時点では割と良い思いをしていることがあります。周りに逆らうことで利益を得るということです。
逆張りとか天邪鬼とかは、大体一般的には好意的には見られません。それが逆張りのデメリットの一つであり、それ故に人とは違った恩恵が得られます。
ただ、最近考えるのは、逆張りというのもまた、メインルートを歩む大多数の意見へ依存的なのでは?と思うようになりました。
逆張りは他者依存的?
話を整理するために、順張り/逆張りを白と黒、二項対立で示しましょう。
- 順張り→世の中の多数意見。メインルート。大通りを歩んでいると思っている。
- 逆張り→世の中の少数意見。メインルートから外れた裏道や藪の中。自分から大通りを離れた強者もいれば、気がついたらメインルートから外れてしまった者もいる。もちろん私は後者。
で、意図的に逆張りを選んだ場合ですが、その逆張りの判断というのは、「順張り「ではない」」というところに重きを置いたから、と考えることができます。その判断は、順張りの集団を認識しているからこそ為されたものです。そういう点では、順張りの集団に依存的な意見であるといえます。
天邪鬼というのがしばしば批判されるのは、「一般大衆とはちょっと違う俺カッコイイ!w」という態度や振る舞いが見え隠れするからです。天邪鬼な彼/彼女もまた、順張り、一般大衆に依存的であり、メインストリームが存在することで天邪鬼さが目立ち、他者との差異を示せるわけです。当然、そのために周囲からの反感だったり無視だったりというデメリットを被るわけです。そして大多数のメインストリーム層は、そういったデメリットを恐れて、メインストリームを進み、逆張り坊やを叩くことで精神の安定を得ようとします。だから人のスキャンダルで飯を食うゴシップ誌やコタツ記事ネットニュースが世から消えないという仕組みです。メインストリームたる彼らは、その主流から外れた人たちを叩くことで鬱憤を晴らし「ね、ね、私たち間違ってないわよね、ね」とお互いに確認しあうのです。
逆張りの向こう側
ところが、逆張りの向こう側というのが存在します。逆張りが他者依存的だとすると、その他者依存から解き放たれるところです。と、書くと難しそうに思えますが、「そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ」というところです。そこの領域まで行くと、順張り/逆張りという二項対立がそもそも意味がないものだということに気づきます。
世間にはいまだに、世の中のメインストリームとなっているものに対して「興味ないんですけど」ということを言うと、天邪鬼かよ、スノッブ気取りかよと評価してくる人が一定数居ます。以前はそういう評価をされると「この人が言っている通り、自分が天邪鬼だからなのかもしれない」と動揺していましたが、最近は「ああ、そうか、そういう評価軸を持っている人なんだな」といなせるようになりました。
『ワンピース』を読んだこともないし、読む予定もないし、興味関心もない、という話をしただけで、鬼の首を取ったように「スノッブ気取り」と攻撃してくる人に遭遇すると、最近ではまず哀れみの気持ちが沸き起こります。そしてすぐに、まあそういう人なんだな、と軽く思うようになりました。
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