東京宅にいます。隣町のスーパーに行ったら、安い!ということで世に知られているスーパーマーケット・チェーンなのに、どれもこれもちょっとずつ値上がりしていて、なるほどこれが円安かインフレか物価高か、となりました。
また、これほどまでに酷暑なのに、相変わらずマスクを着用なさっている方々には頭が下がる思いです。熱中症に気を付けていただきたいところです。
体感としては、朝の満員の千代田線や、帰りの満員の南北線でも、マスクをしていない人の方が多くなってきた、というところです。老若男女関係なく、してる人はしてるしそうでない人はしてない、といったところで、やや学生は着用率が高いように思えました。
近くにあるから手が出ちゃうんだよね
さて、掲題の通りアクセスのしやすさが依存を生み出す、ということで、このブログでも何度か書いてきた通りです。
というのも、例えばグンマ―宅だと家族が買い出しで買い置きしてあったスナック菓子やアイスクリームが常に戸棚や冷凍庫にあり、食後でも口寂しいとついついそれを口にしてしまいました。
ところが、今いるグンマ―宅は一人暮らしですから、すべての食料供給は自分がするしかありません。すると、当然スナック菓子もアイスクリームも家のどこにもありません。買っていませんから。
そんなの当たり前と言われてしまえばそれまでです。ただ、掲題の通り「アクセスのしやすさが依存を生み出す」のですから、これを応用して依存の治療をすることができる、ということです。
スナック菓子ばかり食べてしまうのは、それを買い置きしてしまうからです。
知人でお酒が好きすぎて月に数万使ってしまう人がいます。収入も不安定なのですが、とにかく酒が好きすぎる、ということです。
それ自体は別に良いのですけれども、ビールを箱で買うと数日で飲んでしまう、ということのようです。箱で24本とか買っているので、「な~んだ、まだまだあるじゃん」ということで、ついつい飲みすぎてしまうのだそうです。
これと同じ話を家族でも見ます。父も弟も、毎日のように安発泡酒(ぐぐっと生とかですね)を呷っています。もちろん、ケース買いしているので、常に家に数ケースのストックがあります。
私はこのブログでも書いている通り、飲酒の習慣は無くなりましたから、あったら飲むけど無かったらそれはそれで飲まなくてもいい、という形になっています。
要は、「スナック菓子もアイスクリームもアルコールも、あったら口にするけど無いならないで、わざわざ買いに行ってまで摂取したいものではない」ということです。どれも嗜好品ですから。
本当に必要なものというのは、無かったらわざわざ買いに行きます。例えば今朝も買い物に行ってきましたけど、卵とか豆腐とか生鮮食品は、無いと健康な食生活が送れません。毎日加工食品の類ばかり口にしていては、お金もかかりますし、何より健康が損なわれます。
ところが、嗜好品の類は別に必須でもありませんし、むしろ健康を損なうものですらあります。ですから嗜好品なのですね。「楽しいもの、気持ちよくなるものは、カラダに悪い」んですね。皆が皆そうではありませんけど(ドーパミン的快楽とセロトニン的快楽の違いで、嗜好品は前者を惹起する)。
近くになければいつか忘れる
「アクセスのしやすさが依存を生み出す」のですから、アクセスしにくいところに配置することで依存から離れることができます。食べ物に限らず、私も含めて結構な数の現代人がハマってしまっている、スマホ依存だってそうです。
それだけではなく、アクセスしにくいところに配置することで、徐々にアクセスのがめんどくさくなって、段々とアクセス回数が減っていきます。そして、いつの日か「どうしてこんなことにこんなに執着していたのだろう?」となります。
その日がいつの日になるのかは個人差がありますし、その依存の対象にどれだけハマっていたかにもよりますから、はっきりとした日は言えません。
ただ、精神科治療でよく言われるように、3ヶ月というのが一つの目安とは言えそうです。
脳は死ぬまでその快楽を覚えている
ただし、注意したいのはリバウンドです。
とある依存症の対象を遠ざけて、それで数ヶ月、あるいは数年スパンでその依存から離れられたとしても、ひとつだけ注意が必要です。
それは、脳は死ぬまでその快楽を覚えている、ということです。
しばしば薬物依存やアルコール依存症の治療で語られる通り、二度とその依存の対象に近寄ってはいけない、ということです。
依存から抜け出す過程で少し舞い戻ってしまう、というのは仕方がありませんが、完全に抜けきった、と思って「試しに……」などと手を出すのは、元の木阿弥どころか前より悪いことになってしまいます。
Twitter狂騒曲
おまけとして、Twitterがいよいよ本当に終わりそうです。閲覧回数すら制限され、ろくに使い物にならないのだそうです。
Twitterにも書いた通り、私はTwitterの方々が他のサービスに移るのであれば、それに追随する形でいいかなあ、くらいに思っています。
会社の人やリアルの友人知人がTwitterのAPI制限で右往左往しているところを見ると、「そもそも、これをきっかけにSNSそのものをやめる、あるいは距離を置くのはどうですか?」ということを思ってしまいます。
16歳から12年以上Twitterにズブズブにハマってしまって10000時間以上を軽く浪費した私が言うのもどうかと思いますけど、「そもそも、そのSNS自体をやめる」ことが検討の対象外になっていない、というのが興味深いな、と思いました。SNSの中でAかBかCかを選ぶのではなく、そもそもの発問自体を疑ってみては?ということです。
問題を解決するのではなく、そもそもその問い自体が有効なのか?解決する必要があるのか?ということです。
テレビが壊れて、そのテレビを買い替えるためにあれこれ苦慮して、電気屋さんに何度も電話を入れて「テレビがないと困るんだ!」と絶叫しているお年寄りのような感じです。
SNSもテレビ同様、無くても不便なだけで、生活に必須のものではありません。
都市部に住んでいても、どちらも使わなくても生活できている人はいます。私のように。
Twitterもアクセスのしやすさが依存を生み出していました。その依存から離れる方法は、このブログで以前書いた通り、スマホのアプリを消したり、あるいはPCでのみアクセスできるようにしたり、パスワードチェーンを使わず、都度ユーザー名とパスワード名を入れるようにしたり、という涙ぐましい努力がありました。
Twitterをやめた2021年では心から信じられませんでしたが、2年後の今からすると、朝昼晩と狂ったようにTwitterアプリを見ていたあの頃が信じられませんし、この清々しい快適さを知ってしまうと、Twitterアプリをスマホに入れることはもうないだろうな、という気持ちに改めてなります。
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