スマホ依存症から逃れつつあり、日付が変わる前に寝たら7時前に起きたので(健康的!)、連日の朝の散歩に行きました。
いつもの散歩コースが数パターンあり、Aコースの派生型(川を渡って川沿いの遊歩道を進み、新興住宅街から戻ってくる1時間超コース)を行こうと歩みを進めていたら、川への坂になっている道路の真っ只中で、白と黒のぶちのでっぷりと太った猫が、首から赤黒いものをまろび出して動かなくなっていました。
完全に予想外だったので「うぎゃっ」と飛びのいて、なぜかこれが頭をよぎりました。
大体撥ねられるのは市街地なら猫や鳥、ここから少し山に入るとそれ以外の小動物もいますが、滅多に見かけません。
その後、散歩コースも終盤になり、霧雨が降ってきたのでローソンに入ってコーヒーを買ってやり過ごそうと思ったら、一層雨が強くなっていて笑いました。ずぶ濡れの濡れ鼠になって帰っていたら、戸建ての一階の迫り出した窓に、首元に鈴をつけた、立派なふさふさとした毛並みのおねこさまがこちらをじっと見ていて(こういう猫を雄雌かかわらず「深窓の令嬢」と読んでいます)、ここでも「うぎゃっ」と飛びのきました。いい歳してこんな感じです。
で、骸を曝していた猫と、 深窓の令嬢猫の違いは、同じねこでも一体どこにあるんだろう?な〜んてことを考えてしまいました。
野良として気ままにやって事故死する生涯と、愛玩動物として生涯を閉じるのと、さて、どちらが幸福なんだろうか?みたいな感じです。
まあ、そもそも心停止・呼吸停止・瞳孔拡大が死の三兆候とする考え方自体が近代の定義(=創造物)であり、普遍的真理ではありません。生死を1か0かのデジタル、白黒で考えるのは近代的な慣習であり、実際は濃淡のあるグレースケールである、ということをある人に教えてもらってからは、それまでのデジタル思考からより柔軟な考え方ができるようになりました。
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