朝から散歩で、近所の山を登って、山の麓にある牧場で牛を眺めてきました。北関東の地方都市ですが、こういう環境です。
個人が特定されない程度に脚色を交えてファミリーヒストリー的なものを書きましょう。
父の実家は幹線道路沿いの酒屋で、兄と2人兄弟です。お兄さん(私から見た父方の伯父)の方は、父の実家から南に数キロほど行った隣のK市に住んでいます。お兄さんの息子(私から見た父方の従弟)は、東京の大学に行っていて、就職でUターンして、中学の同級生と結婚して、K 市の隣のA市の大型ショッピングモールの近くに引っ越して新婚生活だそうです。その結婚する話を聞いて、初めて父のお兄さんの奥さんの実家がそのあたりで、ああ、その辺りの方なんだな、という感想を持ちました。そういえば、今朝登った山も、小学生だかそのあたりに、その従弟の彼と登ったな、という記憶があります。
さくらば家は親戚付き合いが希薄で、葬式くらいは集まるか、というノリです。今のご時世は結婚式は呼びませんからね。ということで、私は人生で結婚式に行ったのは小学生の頃に母の弟(私から見た叔父)のそれに行った1回きりです。NEXONのネトゲを出席する直前までやっていた記憶がなぜかあります。私の前の交際相手は沖縄の人ということもあってか親戚付き合いが濃厚で、私の親戚の繋がりの話をすると、「ドライだね」という感想でした。濃い親戚付き合いというのに憧れないわけではないですが、そもそも我が家が人付き合いをあまり好まない人たちばかりなので、そういうものなんでしょう。
そういうことで、父のお兄さんの娘(私から見た父方の従姉)が、今どこで何をやっているのか、まったく知りません。そもそも、名前の漢字すら知りません。
父の父(私から見た父方の祖父)は、先述の通り、幹線道路沿いで酒屋(酒・タバコ・雑貨・駄菓子などを売る店)をやっていました。前の記事でも書きましたが、祖父が倒れ亡くなり、祖母も数年後に後を追うように倒れ、そのタイミングで酒屋は自然廃業となりました。これまた前の記事でも書きましたが、そこはいわゆる集落の寄合所みたいな感じで、子どもの頃に行くと、昼間から近所の人たちが酒を飲んでいました。その中の一人が、私の実家を建てる際に塀の工事をやってくれたおじさんです、という話を聞いたのが先月で、「こういう感じで仕事の融通をしたりするんだなあ」と感心してしまいました。父の父は二代目で、2代で酒屋は廃業となりました。祖父/祖母亡き後、なぜかどこかのキー局が取材に来て、父の兄がテレビデビューしたらしいです。まあ、父も仕事中にテレビに取材で出たことがあるらしいですが・・・。祖父は若い頃、私の地元市に仕事か何かでいたらしく、1947年のカスリーン台風、49年のキティ台風に遭遇して、「本当に恐ろしいことだった、内陸なのに街が海のようになってしまった」と言っていました。祖父は次男なのですが、長男が幼い頃亡くなってしまい、それで自動的に長男に繰り上がったとかなんとかで、もしそれが無かったら戦時中徴用されていたわけで、となると徴用先は必然的に、隣町の当時世界屈指の飛行機製造工場な訳で、ぼこぼこ来ていた空襲でやられていたら私はこうしてブログに現を抜かしていないと思うと、なんともいえないものを感じます。そんな祖父は集落レベルで名を知られているというか、いわゆる集落のお祭りやら行事やらを取り仕切る町内会長的なアレで、市議会議員に口利きとかをやっていて、転職で全国転勤の前職から地元に戻ってきた私の父を地元の市役所に押し込もうとしたがそれを父が断ったとか何とかを彼の葬儀で祖母から聞きました。集落では比較的家計にも潤いがあったのかそれとも酒屋稼業だからなのか、初期にテレビ/カラーテレビを購入して集落中の人が見に来たりとか、オート三輪を配達のために早くに導入して物珍しがられたりしたそうです。また、祖父はバイク乗りでもあり、当時の村では珍しい「陸王」という国産ハーレーを乗り回していたそうで、これまた大学時代毎年バイクを乗り換えていたバイク道楽の父と、大学のある京都までツーリングをしたりしていたそうです。そんな祖父は家業である酒とタバコを思う存分やりまくりましたが、日本人男性の平均寿命まで生ききったので(健康寿命も70後半だった)、人生ってこんなもんなんだろうなあ、という感想です。
父の母(私から見た父方の祖母)は、私の行っていた中学校から歩いて数分のところが実家でした。「でした」と過去形ではありますがその実家は現在もあります。祖母の実家はいわゆる土地持ちで、私が行っていた中学校の土地も半分以上はもともとその祖母の実家たるS家の土地だったとか、戦後の農地改革で一族は土地をかなり持っていかれて零落したとか、明治大正の、まだこの辺りが市ではなく村だった頃に村の副村長とかその辺りをやっていたとか、そんな話を聞きました。土地を持っていたからおそらく地主階級だったんでしょうが、戦後は一族郎党揃って土地を切り売りして暮らしており、私の実家の土地もその祖母のものでした。また、その祖母の所有していた山(テニスコート数面分で、私の実家から車で十数分のところにある)が、父亡き後私の元にやってくることが確定しています。平地があったらキャンプとかできそうなんですが、全て斜面ですし本当に何の役にも立ちません。父が幼い頃は梅もぎに行ったことがあるとかないとかですが、もうどうなっているのか、誰も知りません。そもそもそのS家、苗字が日本で(=世界で)このあたりにのみ集住している、百人程度しかいないレア苗字です。ですから、小中学でその苗字の子たちが何人かいましたが、必然的に彼らは遠い親戚、ということになります。卒業するタイミングで、そういえば〇〇ちゃんってうちの遠い親戚なんだよ、的なことを知らされる、というのは地方あるあるですね。そんな祖母はその実家の長女で、村民が大体尋常小学校卒の時代に私立の高等女学校に行かせてもらえた、いわゆるお嬢様だったそうです。そんなお嬢様、戦時中は機銃掃射の中を竹藪に逃げてご学友とケラケラ笑っていたらしく、ひ弱な平成生まれの私とは胆力が違います。そんなお嬢様だった祖母がどのタイミングで祖父と結婚したのかは知りませんが、商売の都合もあり、おそらく生涯で県外に出たのは数える程度なんじゃないでしょうか。車の免許も持っていなかったようで、配達の類は全て祖父の仕事だったようです。
父の父の父(私から見た父方の曾祖父)は、父が高校生の頃に亡くなっています(1970年代)。ですから彼の顔は遺影でしか知りません。元々、私の実家から西に数キロ行ったところの農家か何かの子どもだったらしいのですが、若い頃に酒屋に見習いに出され、それで独立して屋号を引き継いで頂いたのが父の実家という感じのようです。この辺りは県境の境があまりないというか、上越新幹線の西側より、安足の方が同じ地域という一体感があります。どうしてこんなことを書くのかというと、父の実家は親族が安足地域にある家を移築したものだそうで、そんなことも先月に初めて聞きました。そういうわけで曾祖父の人となりは全く知りません。
父の父の母(私から見た父方の曾祖母)もまた、私が生まれる前に亡くなっているので、これまた遺影でしか知りません。曾祖母も農家か何かの生まれらしいのですが、その辺りは不明です。彼女の実家は、偶然にも父の母の実家から歩いて2〜3分のところにあり(しかし郡も村も違う)、現在は立派な門構えの家になっていました。これまた偶然にも、その彼女の実家の苗字と、父の実家の酒屋の屋号が完全に一致しており、これは曾祖父が見習いで入った店の屋号を頂いたからなのだそうです。
それにしても、私の父方は、父の実家の半径数キロをみんなでぐるぐるしているという感じです。完全に土着の民草ですね。父方の存命の人間で県外に住所があるのは私くらいです。
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