大川美術館に行った/『禍いの科学』を読んだ

2022-01-30

雑記

昨日は天気も良かったので、大川美術館に行きました。10年ぶりぐらいなんじゃないでしょうか。市中心部の高台(水道山)にある美術館で、某流通業のおえらいさんのコレクションがあれよあれよと美術館になった、というところです。

大川美術館というと、松本竣介作品の『街』です。最初にこの絵を見たのは中学生の頃の美術の課題で美術館に行って感想文を書いてこい、というものでした。初めて見たときにその青に魅かれて、とても好きな絵になりました。数年ぶりの再会となりましたが、やはり人間が変わったからか、絵から受ける印象は変わりました。

その絵のお向かいには、クラウドファンディングで松本竣介のアトリエが再現されていました。書棚を見ると、すげー勉強家だな~う~んと唸ってしまいました。並べるだけで満足するのではなく、実際に読んでいたそうです。

企画展は茂田井武という人物のものでした。若気の至りで単身パリに渡航し、皿洗いをしながら絵日記的なものを書き、帰国後は職を転々としつつ、亡くなるまで子供向けのイラストなどを手掛けたそうです。配色がパステルカラーの華やかでモダンな印象を受け、「え?これマジで約100年前なの?」と思ってしまいました。牛乳屋さんの女の子の絵がかわいかったですね。現代のイラストだよって言われても分からないと思います。

最後の展覧室では、地元の現代美術家、山口晃氏の『ショッピングモール』が飾られていました。本町通りがショッピングモールになったら?という氏の鳥観図シリーズの一つです。びっくりしたのが、この絵自体は去年市民文化会館の展示で見たことがあるのですが、何とこの絵(130cm×324cm)を匿名の市民が購入して美術館に寄贈したとのこと。相場は分かりませんが、下賤な話、高級外車1台程度じゃきかないでしょうね。金があるところにはあるのだなあ、と詠嘆しましたし、名前を出さずに地元に寄付したというのが最高にかっこいいです。私もこういうことをいつかしたいですね。


夕飯は毎週スシロースシロースシローで飽きたので「いっちょう」に行きました。群馬・栃木・埼玉を中心に展開する、個室チェーン居酒屋です。といっても、居酒屋というよりは「とりあえずここに来れば飯が食える」便利なお店です。こういうご時世というのもあり、個室というのはありがたいです。レパートリーも定食・寿司・揚げ物・ピザパスタ・スイーツと、ちょっと高めのファミレスって感じでしょうか。居酒屋なのに酒のレパートリーが微妙なのはいただけませんが、仕方がありません。東京住みの時は個室居酒屋が貴重でしたが、世情を反映してこういうのがもっと多くできると良いですね。外食があまり好きではないのが、うるさい客と同じ空間で飯を食うのが嫌だから、というのがあります。


禍いの科学』という本を読みました。アヘン(オピオイド中毒)・マーガリン・ハーバーボッシュ法・優生学・ロボトミー・『沈黙の春』によるDDT禁止・疑似科学にハマったノーベル賞受賞者、という、いわゆる現代科学・現代医学の暗黒の歴史について触れたものです。

例えば優生学は2022年現在、どう考えてもアホらしいトチ狂った考え方です。ですが、せいぜい100年前にはそれは「科学的真理」として熱狂的に支持され、グラハム・ベル、バーナード・ショー、そしてルーズベルト大統領ですら賛意を示したものでした。

ロボトミー手術は精神外科という診療科を確立?し、アメリカ医学会やアメリカ精神医学会が支持していました。

こういった例を知ると、「○○学会のお墨付き」なんてのがあてにならない、というのを感じさせます。

筆者は科学の罠から逃れるために、これらの教訓として

  1. データがすべて。
  2. すべてのものには代償があり、ただ一つの問題はその代償の大きさだけだ。
  3. 時代の空気に流されるな。
  4. 手っ取り早い解決策には気をつけろ。
  5. 量次第で薬は毒にもなる。
  6. 用心することにも用心が大事。
  7. カーテンの後ろにいる小男に注意しろ。(プラセボとかピグマリオン効果のことかな?)

という7つを挙げています。特に「データがすべて」という項目を繰り返しピックアップしています。

ところが、私たち科学的素養に欠ける一般市民には、「そのデータが正しいのか?」と確認することは難しいです。筆者も指摘しているように、査読は完全には機能しません。私の好きな新書『論文捏造』では、「現代科学というのはそもそも性善説が基になっており、論文をいちいち検証しても何の業績にもならないので、言ったもん勝ちという側面が多分にあります。また、有名な科学誌はあくまでもスペースを提供しているだけで、その論文の正確さ・妥当性は何ら担保されていません」といったことを書いています。

ですから、「○○って権威のある雑誌に載ってた」などとYouTubeで連呼するあの人とか、エビデンスエビデンス連呼する人とかがいかに虚しいことをやっているか、ということになります。

結局のところ、科学的なトレーニングを受けておらず、また実証しようもない市井の人々は、当局から提示されるデータを「信仰」して、選択するしかないのだ、ということになります。私たちは往々にして「信仰」という言葉に対して、非科学的という感想を抱きがちです。ですが、私たちは仏教や神道、あるいはキリスト教のような伝統宗教、その他新宗教を信じる代わりに「科学教」を信仰しているといえるのかもしれません。スマホでどうやって地球の裏側の路地裏の風景を見ることができているのか、Webの仕組みについて説明できますか?そのスマホが動く電気はどうやって発電・送電されているか、原理を説明できますか?私はどちらもできません。私たちは、科学というブラックボックスを信仰しているのかもしれませんね。また、個人が判断材料となりうるデータを収集することについて、この20年前と比べたら、インターネットには確かに素晴らしい情報が落ちてはいますが、いかんせんゴミやデマが多すぎます。そして2021年の私はそのゴミ・デマにまんまと引っかかってしまいました。

自己紹介

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sakurabar(さくらば)。1993年生まれ。修士(教育学)→中小企業でパソコンをいじる日々。ねこがすき。 お問い合わせはsakurabar0701あっとまあくgmail.comまで。 Twitter(@sakurabarss)のDMでも同じアドレスに通知が行きます。

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