今までの人生であまり自覚が無かったのですが、自分は怒りが強い性質なのだと知りました。
というのも、世の人というのは「義憤を抱く」ということがそこまで無いし、あるとしてもそれを適当に受け流したりしているようです。
私は結構義憤が強く、まあヤフコメに書き込むというところまでは至っていませんが、それのせいで去年、一昨年はいろいろな人にご迷惑をおかけしたなあ、という申し訳なさがあります。
で、なぜ義憤が強いのか、というと、そこには根底に「コントロール願望・完璧主義」があるからなのでしょう。
コントロール願望というのは、要は物事が自分の思い通りになって欲しいという願望で、それのために介入しようとすることです。このコントロール願望がうまく作用すれば、人生をより良い方向に進めることができます。
ところが、そのコントロール願望が不適切に、過剰に作用してしまうと、しばしば自己/他者に害をもたらします。典型的なのは、子離れできない親とか、配偶者を拘束する夫/妻とか家族関係です。
また、完璧主義というのは白か黒か、ゼロか百か思考であり、100点でなければゴミ、合格しなければ負け組、○○じゃなければダメ、という考えです。この完璧主義は、しばしば幼児性の表れであると考えられています。良い大人というのは完璧主義にはなりえません、というか、完璧主義でない人というのが初めて成熟した大人である、ということが出来そうです。
というのも、そもそも「完璧」という永遠に達成されない幻想を追い続けているのが完璧主義であり(その完璧を定義したのは誰ですか?)、仮にその「完璧」が達成されたとしても「こんなのあたりまえだろ」となるので心が満たされることはありませんし、むしろ「まだまだやれるだろ」と、更に高い目標が設定されます。例えれば無限の螺旋階段を延々と登るわけです。その割には完璧が達成されないと「こんなこともできない自分はダメだ」と自責の念に駆られます。
ということで、このやっかいなコントロール願望・完璧主義が悪さをして世の中へと向けられてしまうと、義憤を抱いて思うようにならない世に対して恨み言を書き連ねてしまう、というわけです。
ところが、大変残念なことに、「行動のみが世界を変えることができる」であって、どんなに素晴らしい意見であっても心の中で心配しているだけ、日記に書きなぐるだけ、インターネットに書いているだけでは世界は1ミリも変わりません。実名である程度の著名度がある人なら話は別かもしれませんが。アフリカの子供たちの悲惨な姿をTVで見て心を痛めても何も変わらない一方、それよりもそんなことを何も考えていないその辺のオッちゃんがコンビニのお釣りをレジ前の募金箱に無造作に突っ込む方がよっぽど世の中を変えています。
「被害者の支援活動を行うなど、義憤が建設的な行動につながればいいのですが、SNSで世相を皮肉ったコメントを残す程度では、世の中は1ミリとも変わりませんし、面倒臭い人だと思われるだけです。」
石徹白未亜『節ネット、はじめました』(P106)
まあ、ということで、コントロール願望や完璧主義が自分や他人を傷つけて手遅れになる前に対処をしましょうね、という話でした。コントロール願望も完璧主義も、存在しえない幻想であり、永遠に達成されることはありません。核ミサイルのスイッチを押す権限があるとかならまた話は別ですけど、 市井の人間には関係が無いことです。その達成されることのない幻想が幻想であるということに気づいて、執着を手放すことが、コントロール願望や完璧主義から離れる第一歩です。
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