最終更新:2021年9月22日
「語学について(その1)」の続きです。ラテン語と先生の思い出です。
ラテン語
で、専攻の振り分けで、言語学科を2年次に選択したので、古代語の履修が推奨されていました。選択肢は以下。
- ラテン語
- 古代ギリシア語
- ヘブライ語
- アッカド語(楔形文字)
- サンスクリット
……当然、ラテン語を選びました。
この中では文字を覚える、というハードルをスキップできることもありましたし、高校生の頃に山下太郎先生のラテン語入門で格言集を色々読んでいたのもありましたし、キケロに多少は関心があったからです。
ちなみに好きな格言は”Tempus est quaedam pars aeternitatis.(時間は永遠のある部分である)”です。
で、このラテン語なんですが、2年対象なので、初級です。
テキストは中山恒夫『標準ラテン文法』を使いました。
答えが一切ついてない上に、説明も非常にあっさりとした、超絶硬派なテキストです。独学は不可能です。
で、授業スタイルは、文法の解説を前半でやって、残りは予習でやってきた羅文(ラテン語文)和訳と和文羅訳をひたすら添削する、という形でした。
予習をしてきて、当てられて答えられないと失望されて飛ばされ、次の人に当たる。こういうことが延々と続く授業です。
そして、このテキストがひたすら不親切です。全く分かりません。
最初の方の授業は、広めの講義室の机を全て埋める程度、40人ぐらい学生がいましたが、40人は2週後には20人になり、10人になり、1人、また1人と減っていき、試験前には数える程度となりました。この人たちは最後まで皆残ったわけですが。
ちなみにラテン語の予習については甘酸っぱい思い出がありますが、恥ずかしいのでここでは省略します。興味がある人は直接聞いてください。
この予習、とても1時間では終わらず、しかも回数を重ねるごとに文法事項がどんどん難しくなっていく。予習時間はどんどん伸び、しかも2年次は先述の通りロシア語の予習もある。バイトもあるし、部活も後輩ができて忙しくなるし、それ以外の大学説明会委員の仕事もあるし、そもそも専攻の授業も始まってきて、破綻という感じになってきました。
なので、秋頃からネットでググって解答例を参考にすることに手を染めます。
当然、実力はつきませんが、授業についていくので精一杯でした。deponentiaとか接続法とかもう用語しか覚えてないお……
ちなみに、ラテン語の試験は授業でやった羅文(ラテン語文)和訳と和文羅訳がそのまま出るだけなのですが、当然覚えられるわけもなく。
何か書けば優がもらえる、という形でした。生き残れば単位は出しますよ、という感じ。
更に更に、初級の次には中級というのがあり、原典購読というのがありましたが、さすがにそこまでやる胆力はありませんでした。
語学学習法マニア
ということで、何一つものにはなりませんでした。
そんな私はもっぱらの語学「学習法」マニア。語学そのものではなく、習得法の方のオタクになってしまいました。
その特徴が、ノウハウやら学習法やら参考書やらには詳しいんだけど、肝心の語学そのものはそれほどでもないやつ。2chの受験板にたくさんいたアレです。
言語モンスターA先生
まとめに変えて、言語モンスターA先生の話を書きましょう。
先述のラテン語の教師がA先生という方でした。
A先生のご専門は世界の古典。
「世界の」というところがポイントであり、教授になられても精力的に毎年複数の論文を投稿されていました。
自然科学系の教授がそうであるように、人文系の教授もまた、科研費などの予算取りや大学・学部の運営や授業やその他色々に追われるのが常です。
あくまでも研究の主力というのは准教授や助教や博士後期課程の院生であり、教授の実績を見てもコンスタントに論文を載せる教授というのは稀です。
その稀な教授がA先生でした。
彼の特徴はタイトルにもある通り「言語モンスター」としか言いようがない、博覧強記。
実は先述の古代ギリシア語の担当教員も彼、A先生。
イタリア語の授業を持っているのも彼。
漢文訓読による原典購読を持っているのも彼。
ヘブライ語による旧約聖書購読を持っているのも彼。
ハンガリー語の授業を持っていたこともありました。
そんな彼がラテン語初級の授業の第一発目でおっしゃったことを今でも覚えています。
「この授業では、ラテン語の初級をやっていくわけですけど、もし西洋古典学とか文献学とかやりたいんだったら、まあドイツ語やフランス語あたりは「軽く」マスターしてもらって、その上で古典語、ラテン語とか古代ギリシア語とかサンスクリットとかヘブライ語とか、その辺りを最低2つ。ロマンス諸語とゲルマン諸語は両方ともやっておいてもらわないと、ちょっと困りますよね。それらをやってもらってようやくスタートラインなので」
というようなことを聞いて、「ああ、世の中、本当に果てしないというものがあるのだなあ」という気持ちになりました。
井筒俊彦や関口存男ほどではないかもしれませんが、世の中には「語学の天才」としか言いようのない人たちが存在しており、そういった人たちは決してメディアに露出することはありませんので、世には知られません。
彼らにとってそんな暇ありませんからね。
こういう人たちにとっては、語学はただ「やる」ものであり、「○○語ができないんですけど」という質問に対しても、ただ「やる」んだよ、とお答えになります。
そういう世界が、日本のどこかに今もある、ということです。
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