「教育について(その3)」の続きです。この記事で一応終わりです。
教育は非専門家が語りがち
教育ほど非専門家が饒舌に語る分野はないでしょう。
なぜなら日本人である限り、ほとんど100%9年間の義務教育を通過してきているわけですし、今では6・3・3・4と16年間学生をやってきた層が多数派であって、学校の先生というのは親を除いた最も身近な職業、専門職だからです。
また、予備校講師というのは教員免許がなくてもなれてしまいますし、大学教員もそうです。教職免許というのは、あくまでも教育職員になるためのパスポートに過ぎないのです。
私は、教育のことを非専門家が語るのは大いに結構なことであり、開かれた環境であるべきだと思っています。
ですが、最低限の知識くらいは知って意見してくださいね、というところもあります。
例えば「公教育」を公立学校での教育、という意味で使用し、対義語として「私教育」=「私立学校での教育」とする例です。
えら〜い大学教授様とかコメンテーター様でもいまだにこの例で話していてうんざりするのですが、公立学校も私立学校も「公的制度によって行われる教育」なので「公教育」であって、「私教育」は塾とか予備校とかカルチャースクールの習い事を指します。
(ご存知の通り)教員はもはや聖職ではない
最後に、教員は聖職ではなく、もはやブラックサービス業である、という夢も希望もない話を書いて終わりにします。こんなところを読んでいる方はとっくにご存知かと思いますけど。
教員のブラック労働、あるいは教育現場の「一般社会」とは乖離した実態について、類書がさまざまあります。
この記事では内田良『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』光文社新書、を紹介します。
https://www.amazon.co.jp/dp/4334038638
本書では熱心な教員が「児童の生徒のためを思って」、2分の1成人式や組体操や部活動の体罰や死亡事故が学校現場で起きている、という実態について問題提起したものです。
2分の1成人式というのは、文字通り10歳になって今までの人生を振り返って、親に感謝する手紙を書いたり、それを音読して手渡しするという感動的?なイベントです。
これで今まで育ててくれた親への感謝の気持ちが云々かんぬんというところです。気持ち悪いですね。
組体操はn段ピラミッドが象徴的ですが、下部の児童生徒ほど背中にかかる重さは凄まじいものになり、段数にもよりますが最下部中央(ピラミッドの底辺中央部分)の児童は最大200kgの重みに耐える必要があります。
手のひらや膝こぞうは校庭の砂つぶがめり込んでとても痛いです。
そして、ひとたびピラミッドが崩壊すれば、最悪圧死の危険すらあります。そういった事故は毎年発生していました。
では、上段の児童は楽か?というと別の危険が待ち受けます。
工事現場などの高所で作業を行う際、労働者は労働安全衛生規則により、2メートル以上ではヘルメットと安全帯の着用が義務づけられています。
ところが、ピラミッドというのは段数によっては最上段の児童は2メートルを超える高さになります。私の身長が約1.8メートルなので、上に伸びをした高さです。
ところが、当然ですが、ピラミッドの最上段の栄光ある彼/彼女は、ヘルメットも安全帯もない、完全に生身の姿です。
そんな彼/彼女が落下したら?プロの職人たちですらヘルメットするのに?
さて、問題なのは全ての教員がこういった2分の1成人式や組体操や体罰について肯定的なわけではない、というところです。当然の話ですが。
一部の「熱心な」教員が、「児童のため」を思って、そういった暴走をしてしまうのです。
・・・と書くと教員が悪い、という話になってしまいますが、それでは終わらないのが悲しいところです。
本項の最初に「ブラックサービス業」と書きました。
戦前の教職というのは、文字通り「聖職」でした。
都市部はもちろん、町村部では知識層というのは僧侶か学校の教員くらいのものでした。
ところが、戦後急速に庶民の学力が向上してくると、大卒というのは珍しくなくなってきました。
それどころか、教職免許を持ちながらもサラリーマンや自営をしていたり、という者も現れ始めます(おれやんけ!)。
高度経済成長期を通過し、日教組の勢力が弱体化していくと、教員の権力というのは急速に低下していきます。
庶民の消費者意識の高まりがそれに拍車をかけます。モンスター・ペアレントの登場です。
核家族化、そして共働き世帯の急増/専業主婦の絶滅もアクセントを加えます。
その帰結が、本来各家庭で為されるべきしつけレベルの事柄ですら、学校に押し付ける、という構図です。
教育に関するあらゆる面倒なことを学校の先生にアウトソーシング、丸投げするようになります。
だって自分は仕事で忙しいから仕方ないですよね。働かないと素敵なマイホームのローンも子供の進学塾代も払えませんからね。
そうして、聖職としての教員は終わりを迎えました。
残ったのは、延々と「保護者様」の「ありがたいお言葉」に怯え、月月火水木金金と学校に通い詰め、クビにはならない代償として学生時代のバイト以下の時給で働く教員です。
特に現代の若手教員は、部活動の顧問をしたくない、少なくとも活動時間はもっと抑えてもよいのでは?という方が多いかと思います。
また、生徒の方も「部活動は活動が多すぎる」という子がかなりの数いるかと思います。
では、顧問も生徒もやりたくない部活をやって喜ぶのは誰なのでしょうか?
それは、学校の実績となる管理職もそうですが、最大の要因は、やはり「物言う保護者様」なのです。部活動が無くなったら、特に娯楽のない地方では、学生の有り余る衝動を発散させるには部活動はうってつけなのです。保護者にとって部活動は非常にありがたいものなのです。
そうした「保護者様」にとって、「部活動の日数を減らします」という教員は歓迎できないものです。
ですから、学校にガンガン電話を入れて「前任のA先生は週6で部活やってくれたのに、新しくきたS先生は週3とか、どうなってるんですか?甘くないですか?」というありがた〜いお言葉を顧問にお届けする、ということになります。
某県で教員をしている知人のもとにも、自粛期間中に部活を制限していたら、保護者様から「部活やれよ。なめてんのか?税金泥棒」とありがた〜いお言葉があったようです。
その発言主が同じ税金泥棒の公務員行政職ってのが最高に笑える、いや笑えないところです。自分を棚上げできる客観性の無さ、「てめーも暇なんだしいい機会だからもっと子どもにちゃんと向き合えよ。てめーこそ自分の子育てから逃げんなよ」とは絶対に口答えさせてもらえないので、教員は平謝りするしかないのです。
・・・ということで、本項の冒頭に書いた通り、教員は聖職ではなく、もはやブラックサービス業なのです。
そりゃあなり手も減りますし、精神疾患による休退職も増える一方ですわね。
ところが、文科省や県教委は、この対策として「もっと教員の魅力をアピールしよう←????w??www?w??ww」という、トンチンカンなことをやっているわけです。
彼らもきっと問題の根幹はわかってるんでしょうけど、当然問題は労働環境の悪さにあるわけです。
ですが、その問題を改善するための定員増や報酬増は財務省が絶対に許してくれません。
なら、「もはやこの報酬でサービスを維持することは不可能です。ですから、〇〇をやめます(〇〇には行事とか部活とかの活動が入ります)」というのが筋なのですが、お役所同様に、今までやってきたことをやめることがものすご〜〜〜く苦手なのが教員の世界です。
そのため、破綻するまで死への直滑降、という形です。
そして、その兆候はすでに全国で現れ始めて、カウントダウンが始まっています。
0 件のコメント:
コメントを投稿