2回目の、そしておそらく最後になるであろう東京オリンピック開会式の日にこの記事を書いています。
中止されることなく、閉会式までしめやかに(?)とり行われることを願っています。
2020年2月までは、私は東京オリンピックに懐疑的な意見でした。
どうしてこの灼熱の7月8月の本邦で、わざわざオリンピックなんてやらなあかんの、電車も混むし大変でしょう、と。
「いやーリモートワークになってほしいわーだったら東京なんか離れて実家で仕事しますわw」と。2019年の7月にはそんなことをのんきに語っていました。
しかし、世界は見るも無惨な姿に代わり、どんどん狂ってしまいました。まあ、この辺りについては稿を改めるとして。
そうすると、当初は五輪反対派でしたが、「(二重の意味で)復興の象徴としての五輪」を開催する意義はある、いや、やらないといけないのでは、という気持ちになりました。
このオリンピックを開催することが、実質的に本邦における、この例の騒ぎにピリオドを打つのであれば、実施した方が良い、ということです。
ですから、無観客開催にはガッカリしました。私は全く見に行くつもりはありませんでしたが、観戦が対面コミュニケーションやエンターテイメント復活の狼煙になるはずだったからです。
近代五輪史上初の、ほとんど無観客の五輪。しかし、それが達成されたのは、映像技術や情報通信技術の進展、技術革新があってのこと。地球の裏側で見られなかったらどう考えても開催する意義ありませんよね。
また、1年延びたとはいえ、幸か不幸か、私は東京から離れて仕事をしてこの記事を書けています。
2019年7月に冗談混じりで望んだことが、成就してしまったのです。一寸先は闇ですから、この先の情勢がどうなるかは分かりませんが。
私たちの大好きな「足の引っ張り合い」
五輪開催前にマスメディアやインターネットやリアルやあらゆるところで、「私たちがこんなに我慢しているのに、どうしてオリンピックは特別なんだ!私たちの運動会が、スーパーアリーナライブが、成人式が中止なんだから、オリンピックも中止に決まっているだろう!」という論調が見られました。
この、本邦特有の、「私たちが苦労しているんだから、お前らも苦労しろ。私たちの楽しみが制限されているんだから、お前たちも我慢しろ」的な論法、大嫌いです。「私たちが不況による給料カットで苦しんでいるんだから、公務員給与もカットしろ」的なやつね。
これは逆であるべきで、「お前たちが楽しい思いをするのなら、私たちの制限も取り払ってくれ!私たちにも楽しい思いをさせろ!」が本来の姿なのでは?と思います。つまり、
「オリンピックやるんなら、運動会やライブや成人式もOKだよね?」
というやつです。なのに、どうしてマイナスの方で横並びになろうとするのか、不明です。ヒトはマイナスの感情に引っ張られやすく、自分以外年収2000万円の集団で1000万の収入を得るよりも、自分以外年収300万円の集団で500万の収入を得る方を喜ぶらしい、というのと関係がありそうです。
もっとも、今までやってきたこととの整合性が取れなくなるから無観客になったんだろうな、と思いますが。
最後に、この例の騒ぎ、様々な施策がメディアを通して喧伝されていますが、端的に書くと「前提が誤っているからどこまでいっても誤り」という感じです。医療とメディアが必要以上の、あまりにも社会において力を持ち過ぎた社会の末路を見させられている、という感じです。
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