Twitterを離れて気づくこと

2021-07-29

IT 生活

SNS疲れについて」で書いた通り、Twitterを見る時間が極端に減りました。


タイムラインを見るのは一日で5分未満、リプライとDMを返す時くらいです。

そのタイムラインを見るのも、Tweetlogixという有料アプリをようやく購入し(遅い)、広告なしトレンド表示なしタイムラインにいいね/RTなしの超絶快適空間です。

そして、そのTweetlogixも2021年7月末の時点では、デバイスから削除してしまいましたので、タイムラインを全く見なくなってしまいました。ですから、リプライにも気づいていません。


投稿はFasPosという投稿専用のアプリを使っています。

タイムラインを見ずに、通知センターから投稿するだけ、投げっぱなしです。

半月以上経ちましたが、Twitterを見ないことに病みつきになってしまいました。

というか、Twitterをみるのがこわい、という感じです。

Twitter漬けの青春

高校1年生の頃から、ず〜〜〜〜っと10年以上Twitterに浸ってきました。

脚色なしで数千時間(5000時間以上)をTwitterに使ってきました。

もはや生活の一部どころか、人生の一部というところまでどっぷりです。

私のように、社会性を身につける発達過程でTwitterを、本来の社交の代替として使っていると、必然的に「Twitterを見ないといけない」「Twitterがなくなったら怖い」「Twitterが無くなったらどうなるの???」という強迫観念のとりこになってしまいます。


「Twitterが無くなった生活、Twitter後、アフターTwitter」が想像できなかったのです。

中学生の頃から入り浸っていた2chは大学進学とともにあっさり離れられたのに。

いや、だからこそ、2ch依存がTwitter依存へとスライドしていったのでしょうか。

Twitterがなくても人生は続く

そんなTwitterが身体の一部の私が、Twitterを一日5分も見ない生活をして、気づくのは、普通に?生活していたら当たり前なのですが、「Twitterを見なくても、人生は何も変わらない」ということです。それを体感しています。

そんな当たり前すぎることにも気づかなくなっていました。これが、SNS依存の恐ろしいところです。

SNS依存は、病識の無さもそうですが、病識があっても「自分でも依存を止めないといけないな、と思っているのに止められない」というところに本当の恐ろしさがあると思います。←それを「依存症」って言うんですよ


Twitterを見なくなると、必然的に世の中の情報を取らなくなっていきます。

新聞は取らない、TVは居室になく、出先やら実家で流れているのがぼんやりと目に入る程度、ネットニュースも自分からは見ない(けど広告やら検索やらで向こうから飛び込んでくる)、という生活です。

仕事でもそういった時事ネタに触れる機会はあまりありません。


そうして気づいたのですが、「本当に必要な情報なら、人伝てに伝わってくる」ということです。

永江一石氏が何かで書いていましたが、情報の取り方にはプッシュ型(押し付けられる)とプル型(自分から取りに行く)と二つあるとのことで、この分類でいくと、私はプッシュ型に辟易している、といったところでしょうか。


また、Twitterというのは、140文字という制約があるため、何らかのまとまった考えを載せるのには適していません。(当たり前ですが……)

古来から(いつから見て?)あるブログの方が、まとまった考えがあり、ネット上の仮想であれ、人格がはっきりわかる、というメリットがあります。

また、古式ゆかしいテキストサイトの良さを再確認することにもなりました。

Twitterムラ

その他でTwitterから離れて気づく、私がキツいと感じたことをいくつかあげていきましょう。


まず一つ目は、Twitterは攻撃的な捨て垢が結構あってノイズが多い、ということです。

相手に文句を言いたいが正当な論理で言い返すことができない、だから実名アカウントに対して捨て垢を使って攻撃的なことを一方的にいう、という様に耐えられない、という感じです。

インターネットなんてそんなものなので仕方がない、というか2chの頃の「半年ROMれ」文化の再評価というか、私自身が性善説に与しすぎなんでしょう。

相手にするだけムダ、というとそれまでなのでしょうが、それだって集団でやってこられたら意識の消耗を招きます。


二つ目は露悪的なツイートがRTや公式アプリのいいね表示機能でそこそこ流れてくることです。

「お気持ち開陳型」と「何でもかんでも種の保存と言っておけば自分の都合のよい解釈が通る進化心理学信奉のエセ科学型」と「エセ科学絶対許さないのでどれだけ叩いても許されると思っている科学真理教型」が特にしんどかったです。

特に最後のは病識が無いのがしんどさに拍車をかけており、Twitterから離れる決定打になりました。

ここ数ヶ月のマイブームは「科学はあくまでも真理を追求するものではなく、信仰体系の一つである」「科学信奉者も結局は権威主義的なところがあるのではないか?」というところです。

これは気が向いたらブログに書きたいと思います。


三つ目はそういったノイズや、Twitter公式クライアントを使っていると雨あられのように押し寄せる広告に辟易しているところです。

Tweetlogixというアプリなら広告表示はなく、こういったノイズや広告をほとんど排除できるため、610円ならもっと早く購入すればよかったなあ、という感想です。

現に、ここ数年何度も「Twitter公式の広告ウザいなあ、でも金払うほどじゃないし」で、結果的には公式クライアントをほぼずっと使い続けていました。

ただ、その時にアプリを購入していたら、こうやってTwitterから離れることもなかっただろうし、結果的にはよかったのかもしれません。


四つ目は、2020年2月ごろから現在まで世界を席巻している某騒ぎに関するツイート群で実生活に影響が出るくらい消耗したからです。

私自身もちまちま私見をツイートして、おそらくかなりの人から煙たがられたと推測しているのですが、まあ、この件については、各個人の立ち位置によって優先順位は異なり、絶対に意見の一致を得ることはない(あらゆる意見はポジショントーク)と思うので、ここまでにしておきます。


Twitterから離れることで、こういった事柄からかなり自由になりました。

その分空いた時間で、ブログをこうやって執筆したり、読書をしたり、散歩をしたり、ゲームをしたり、他の方のブログを掘ったり、昔からの友人や最近知り合った知人と1対1でメールを送る、という感じです。

特に、数年連絡を取っていなかった友人にメッセージを送ったら、ちゃんと返ってきたのは感動的でした。Twitterのタイムラインばかり見ていると、そういうことも意識の外に行ってしまうんですね。

Twitterから離れたデメリット

ただし、Twitterから離れることによるデメリットも多少なりとも存在します。


まず一つ目は、「予想外のことに触れることがなくなった」という点です。

Twitterの良さとしてそういったメリットが挙げられます。

RTやら色々な方々をフォローしていると、予想外のことが色々流れてきて、「へぇ〜」となることがあります。


二つ目は「考え方が偏ることに対する不安」です。

TwitterのようなSNS仮想空間では、しばしばフィルターバブル(※1)によるエコーチェンバー(※2)が観察されます。

※1:アルゴリズムによって、見たい情報だけをサービス側が見せ、見たくない情報は見せない、という仕組み

※2:閉鎖空間で、まるで声がトンネル内で反響するように、特定の意見や思想信条が強化されること


私はそれを数年前から知っており、特に2020年2月からの某騒ぎでそういった様が散見されるようになりました。

Twitterから離れることによって、Twitterがもたらすフィルターバブル&エコーチェンバーから離れることはできましたが、非Twitterがもたらす考えの偏り(決まったジャンルのブログやメディアしか触れないのではないか?)があるのではないか?という不安を今も抱えています。

自分自身もTwitterのフィルターバブル・エコーチェンバー内で消耗していたが、それは非Twitterでも変わらないのではないか?ということです。


ただ、これは少し考えてみると、杞憂ではないのか?という気がしてきました。

考えが偏る、というのは、そもそも社会の構成員であったら当たり前では?ということです。

そもそも、理念というのは実際に実現不可能だからこそ目標として掲げるのであって、実現可能なことは当たり前なのでわざわざいうまでもない、といったところです。


「「公平・公正」、「不偏不党」」を掲げる公共放送がありますが、それは実際に実現不可能だからこそ目標として掲げるのです。

特に例の騒ぎ関連で、出先でちらっと見た時に「いのちを守る」と称して専門家を出しまくっている(出まくっている、という情報はブログ経由で入手)のを見ると、「おいおい完全に専門家のプロパガンダじゃーねーか」とか思うわけですが、まあ、そういう感じなのでTVを買うことは所帯を持たない限りは無いでしょう。

ですから、考えの偏っていない、完全に中立の人というのは非実在ではないか?ということです。

むしろ、「自分は今エコーチェンバーのただ中に居て、考え方の偏りが甚だしい状態では?」という病識があることが大切であって、偏っていること自体はそこまで問題ではないのでは?と思いました。


もっとも、この「病識」というのは、常に自分を疑うということ、思考停止を許さないという態度です。

これは、猜疑心やら自己攻撃性に繋がるので精神衛生上はあまりよろしくないのでしょう。

裏を返せば、自分を疑うことがない、偏りまくりの人というのは、自分自身は幸せなので、絶対に自分を責めることはない、ということです。

自己紹介

Japan
sakurabar(さくらば)。1993年生まれ。修士(教育学)→中小企業でパソコンをいじる日々。ねこがすき。 お問い合わせはsakurabar0701あっとまあくgmail.comまで。 Twitter(@sakurabarss)のDMでも同じアドレスに通知が行きます。

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