最終更新:2021年9月1日
消費主義について書いてみます。
ヴェブレンの議論から出てきた”Consumerism”の訳語が消費主義です。
要は「どんどん市場(しじょう)の商品を買って消費してちょ」ということであり、そのために色々な正当化が行われる様です。
ものの「機能」そのものではなく、そこに付随する「記号」を消費する、という形です。
消費主義の例
例えば、寒さを防ぐための、服の防寒が「機能」とすると、マッキントッシュとかバーバリーとかのコートのブランドが「記号」というものです。
別に寒さを防ぐだけだったら、下手したらワークマンの4000円くらいのジャンパーの方が「機能」は上なわけです。
でも、そのワークマンジャンパーを50着も100着も買えてしまう、ハイブランドのコートを購入したからといって、「機能」が50倍、100倍になるわけではありません。むしろ、ワークマンジャンパーの1倍未満でしょう。
でも、ハイブランドのコートは毎年何着も売れる。
「いい歳をした大人ならこれくらい当然」
「ボーナス出たし良いコート買っちゃお」
「インスタやTwitterに写真載せよーっと」
これが「記号」の消費です。
自由意志は存在しない?
さて、「消費主義」という語そのものが、消費主義について批判的です。
「消費主義」という概念が存在しなかったら、そのこと自体に疑念を持つこともありませんし、その対立軸としての「反・消費主義」も存在しませんから。
消費主義について考えると、思い至るのは、「自由意志というのは、本当に存在するのだろうか?概念上でのみ存在する、かりそめのものなのではないだろうか?」ということです。
例えば私たちが何かを購入しようとする時、そこには「自分の意思で決定している」ということが前提になっているように思われます。
しかし、本当にそうでしょうか?
「買いたい」のではなく、買いたい、と「思わされている」のではないのでしょうか?
と書くと、広告が云々とかそういう話になりますが、その領域を超えた話です。
先述の「いい歳をした大人ならこれくらい当然」「ボーナス出たし良いコート買っちゃお」「インスタやTwitterに写真載せよーっと」というのは、どれもテレビCMやWeb広告によって、直接的になされたものとは言い難いです。
ビールやお菓子といった食品ならともかく。食品はどちらかというと、記号的性質より機能的性質が強いでしょう。純粋にゼロとは言えませんけど。
先述のコートのような記号消費は、価値観を形成していくことで為されていく、ということです。
そもそも、「いい歳をした大人なら高級コートをまとっていないと恥ずかしい」「ボーナスが出たから良いコートを買う」「インスタやTwitterに写真を投稿するために高級コートを買う」というのは、生存にとって必須の条件ではありません。あくまでも「価値観」の問題です。
その「価値観」とやらは、どこからきたのでしょうか?
CMやWeb広告よりもずっとずっと深いところ、私たちが気づかないところでその価値観が形成されているとしたら。
「大人の男ならタバコくらい吸えて当たり前」「飲み会の最初の一杯はビールに決まってるだろ」といった風習は、どこからきたのでしょうか?
そういった「価値観」を形成するのもまた、広告代理店の仕事だとしたら、どうでしょうか?
そう考えると、生得的ではなく、後天的に附与される価値観によって、消費財を無意識のうちに「買わされて」いて、それを自分自身の自由意志だと思い込んでいるのかもしれませんね。
穴を掘って埋めているだけ?
考えてみたら変な話です。あくせく仕事をして、「記号」を消費する。
しかしその記号の消費、よくよく見てみると、マイナスをゼロにしているだけじゃないでしょうか?
穴を掘って埋めているだけで、最初からそのマイナスが存在しなかったら、記号を消費して埋め合わせをする必要もないんじゃないでしょうか?
ありがたい消費主義
しかし、この市場経済が回っているのも、消費主義のおかげであります。
消費主義のおかげで、今日も私は安い値段で「機能」を満たす消費財を購入することができるわけです。
そして、こういうことを書くと「お前はオレたちを馬鹿にしているのか!」とか「このスノッブ野郎め」とか、あるいは「みんながみんな消費主義を否定したら世の中が回らなくなる」的な意見が出てきます。
しかし、安心してください。反消費主義は「絶対に」メジャーにはなりません。現代社会が反消費主義を推奨することは絶対にありえないからです。
私は、人間の欲望を信じています。みんながみんな清貧になるとは全く思えません。むしろ、反消費主義は、マイナーであるからこそ意義を持ちます。
(絶対にありえませんが)反消費主義になると、困る人たちは、どこにいるのでしょうか?
それは、消費主義のおかげで、効率よく富を蓄積している方々です。
彼らは、労働者が時間=生命と引き換えに手にした金銭を、自分たちに移転してもらうことで、ますます富を蓄積させていきます。
そのためには、労働者たちが「自由意志で」富を移転する、すなわち消費してもらう必要があります。
ですから、(直接的には言いませんが)「消費が善である」というイデオロギーを、あらゆる手段を用いて喧伝し、価値観として浸透させていくわけです。
そうすることで、労働者は「自分の意思で」消費を行って、富を富めるものに移転させて満足する、という形になる、ということです。
惚れ惚れするくらいよくできているシステムです。
対策は?
別に「消費主義は愚かしい!反消費主義になってブルジョワを倒そう!」という話ではなく、そういう構造があるかもしれませんよ、という提案の話なので、特にあれをしろこれをしろというのはありません。
ですが、時代によって本当に必要なものは変わってきますし、その「本当に必要なもの」というのは、思ったより少ないのかもしれません。
何かを新たに始めることが奨励されるこの世の中ですが、それは「始める」ことは「消費」に直結することが多いからです。
ですから、始めるのではなく、何かを「やめる」というのが、蕩尽や無節操な消費に対する第一歩なのかもしれません。何をやめるかは人によりますけど。
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