掲題の通りエビデンス至上主義について書きます。後半で、EBMとNBMの話も書きます。
エビデンスという棍棒
「エビデンス」が錦の御旗のように、至るところで喧伝されています。
私も当初は「エビデンスが大事だ!エセ科学はけしからん!いいぞもっとやれ!」と思っていました。ですが、時を経るにつれて、違和感を覚えるようになりました。
「エビデンス」を連呼する人たちは、まるで自分の意にそぐわない人を殴り倒すための棍棒のように「エビデンス」とやらを用いているように見受けられたからです。
陰謀論者やかなりきっついスピリチュアルな方々ならともかく、「それはおかしくないですか?」という素朴な疑問ですら「エビデンス」の名の下に棍棒を振るって黙らせている、というような様です。
「エビデンス」は絶対的なものではなく、あくまでも判断材料の一つに過ぎません。
なのに、「エビデンス」をどうしてここまで振り回すのでしょうか?
そのエビデンス、「捏造」かもよ?
そもそも、その「エビデンス」とやらもどこまで本当か怪しいものです。
『論文捏造』という新書があります。
これは、捏造が難しいとされていた物理学の世界で論文捏造が発覚し、その検証にとてつもない人的コスト・金銭コストが費やされた、という話です。
人為が関わらないから捏造のしようがない、といわれていた物理学ですら、世界を代表する研究所であるベル研究所ですら、世界を揺るがす捏造の震源になったのです。
科学の世界は「性善説」を前提として成り立っている節が多分にあります。その前提が覆された時の脆さが現れた事件でした。
余談ですが、この捏造事件が発覚したのは2002年。その6年後の2008年には、ベル研究所は基礎研究からの撤退を表明します。
この件が、レーザー・トランジスタ・UNIX・C言語を世に生み出した研究所の、基礎研究終焉の引き金の一つになったことは疑いがないでしょう。
いわんや、人為がいかようにでも加えられてしまう生物科学・医学ではどうでしょうか?近しい例では、昭和大学医学部で論文の改竄が行われたことが明らかになりました。
https://www.mext.go.jp/a_menu/jinzai/fusei/1360847_00001.htm
また、『論文捏造』が示した恐ろしいところは、『Nature』『Science』といった超一流雑誌に、この捏造論文が掲載されていた点です。
そして、これらの編集長が取材で示したのは、「いや、別に、査読とかそこまで厳密にやってないし、うちらに責任問われてもね。不正をやっている方が悪いし、査読じゃこんなの見破れないよ。うちに載ってるからって妥当性を担保してるわけじゃないし、あくまでも場所貸し」という開き直った姿勢だったのです。
つまり、一流雑誌に載っているからこのエビデンスは強固である、などというのはおとぎ話の世界の話なのです。
では、なぜ「エビデンス」「一流雑誌」信仰が生まれたのでしょうか?
私は、インパクトファクターへの過信がその一因ではないのか、と考えています。
インパクトファクターとは、その雑誌に掲載された論文の平均引用回数から求められた値です。
つまり、「たくさん引用されてるんだから影響力あるっしょ」というものです。
その背景にあるのは、結局、
「IF(インパクトファクター)が高い雑誌に載っているからこの論文は正しい」
→「一流雑誌に載っているからこの『エビデンス』は妥当だ」
→「だから黙って俺のいうことを聞け」
という、権威主義です。
エビデンス至上主義の原因
エビデンス至上主義者が、エビデンス至上主義に陥ってしまうのは、虎の威を借る狐が、相手を説得させるために権威を笠に来て自分の言うことを聞かせよう、とするからです。
ここでエビデンス至上主義者に欠けているのは、「エビデンスでは語られていない、判断しきれないことがあるのではないのか?」という懐疑であり、エビデンスに納得しない理由を聞くことです。
「こんなに素晴らしくありがたいエビデンスがあるのになぜ受け入れないのか!このエセ科学信奉者め!」と相手を罵るのは簡単ですが、では、なぜその「エビデンス」が受け入れられないのかを試行錯誤する必要があるのではないのでしょうか。
早い話、エビデンスを押し付けてそれを拒絶されている時点で、既にコミュニケーションに失敗しているのではないのでしょうか?
「北風と太陽」の寓話は示唆的です。
エビデンス棍棒で殴れば殴るほど、その相手は反発するだけです。
エビデンス至上主義村の内輪で「エビデンス」に従わない人を「エセ科学で頭がお花畑になっているスピリチュアル」と貶し続けても、問題は解決しません。
EBMとNBM
EBM(Evidence Based Medicine)という語は、しばしば誤解されています。
エビデンスに則る治療というのは、エビデンス通りに治療をする、ということではありません。
あくまでも、エビデンスは判断材料の一つ。
エビデンスを踏まえて、「こういう研究結果があります。で、どうしましょうか?」というのが本来のEBM。
そこからさらに対話というか、患者の語りを進展させたのがNBM(Narrative Based Medicine)です。
そこには、エビデンスに偏り過ぎた反省から、患者の主観的な語りを治療方針により尊重していこう、という姿勢があります。
思えば、「病気になったらどんな手を使っても長生きする」というのは、医療者側の視点に過ぎないかもしれません。
医療者側にも患者にも患者家族にも、それぞれ「何がなんでも長生き派」と「いや〜ほどほどで良くないっすか派」と「どうでもいい派」と「寿命だよ寿命派」と、色々いるわけです。
私の亡き祖父も、「酒と煙草を思いっきりやる」と全く摂生せず、それが原因で自宅で倒れ、その後数年を病院と介護施設で寝たきりで過ごし、そのまま帰らぬ人となりました。
しかし、やりたいことをやり切って生涯を全うするのと、やりたいことも我慢し続けて寿命だけを伸ばすのと、どちらが主観的に「幸福」なのでしょうか?
各個人個人によって、人生の優先順位は変わります。
絶対に長生きしてやんよ、そのためなら娯楽は全て我慢だ、という人もいれば、太く短く、という人もいます。
EBMやNBMは、そういった患者に対して、一律的に「長生きが善」という「医療ファシズム」的な押し付けを行ってきたことに対するアンチテーゼなのかもしれません。
まとめ
まとめると、「エビデンス」至上主義者は、エビデンスを強力にゴリ押ししている時点で、相手との交渉に失敗しているので、戦略を考え直した方が得策ですよ、という話です。
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