生産性に対する違和感

2021-08-22

雑記

この記事は昨今、社会で連呼される生産性という言葉についての違和感を記した記事です。

生産性の向上が目的なの?

先日、マヌーシュ・ゾモロディ『退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す』という本を読みました。


Amazonのあらすじを引用すると、以下の通りです。


スキマ時間を「有効活用」してはいけない!


ちょっとしたメールチェックや写真撮影が、あなたの才能を奪っている。なぜなら、真の創造性・生産性はボ〜っとしているときにこそ生まれるからだ。クリエイティブな“退屈タイム"を生み出す7つのステップを徹底指南! あなたの中の空想力や創造性をもう一度取り戻すための、スマホ時代の必読書。


内容としてはその通りで、要はスマホに奪われている時間を見つけて、あえて「退屈」を取り戻すことで、クリエイティビティになりましょね、という感じの本でした。


しかし、どうもしっくりこないというか、違和感を覚えました。


というのも、結局スマホを置いてやることというのが「生産性の向上」なのです。


マインドフルネス?


同じことを「マインドフルネス」という語を知った時にも感じました。


やっていることとしては瞑想ですが、瞑想という名前では、ヨガとか禅宗とか仏教系新興宗教のような宗教臭が漂ってきます。


ですから、そこから宗教風味を脱臭して、ニュートラルにエッセンスだけを抽出したのがマインドフルネス、というわけです。


ところが、このマインドフルネスというのも、結局帰結する先は「雑念を落ち着けて頭をスッキリさせて集中力を高め、生産性を向上させる」というところでした。


結局、スマホに奪われているスキマ時間の退屈も、マインドフルネスも、「生産性の向上」のため、というところに、「え?」という違和感を感じました。


人間は機械じゃねえ


違和感を感じつつネットサーフィンをしていると、下記の記事に辿り着きました。


https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00131/00003/


該当する箇所を引用したのが、以下です。


効率や生産性という言葉は、もともとは工場で使われてきた工業用語なんです。そして工業の本質とは「分業」です。


同じものを規格品として大量生産するなら、これが効率的で生産的なんですが、そうじゃないものもたくさんあります。例えば人間が学習をする場合、そもそも一人ひとり性格が違うし、個性が違うし、やりたいことや学びたいことだって全然違う。同じ規格品じゃないのにもかかわらず、ほかの多くのことに工業の考え方を当てはめてしまうんです。


まあそういうことで、現代資本主義社会というのは、工業社会の価値観を多分に含んでいます。


ですから、「効率を上げる」「生産性の向上」という語が頻繁に使われるようになった、というところです。これは腹落ちしました。


生産性のさらにその先へ!


そもそも、どうして生産性をあげなければならないのでしょうか?


勤め人であれば生産性をあげたところで、いつしかそれが当たり前となり、さらに生産性を上げることを要求される。


終わることのない無限螺旋階段(ペンローズの階段)を登り続ける、ということです。


これだけ自動化・効率化が叫ばれているのに、いやだからこそ、「生産性」が高まれば高まるほど、単位時間当たりの仕事の難易度は上がっていく。


高度経済成長期とかの記録フィルムを見ていると、「え、こんな仕事に時間かけてんの?」となります。


今ではスプレッドシートの関数とかシェルスクリプトで数行書けば終わる作業を、何日もかけてやっていたのです。


本来の人生の到達ポイントとしては、功成り名遂げるというのも確かにありではありますが、私としてはそれよりは、「自分自身が幸福感を感じるか、安穏を感じるか」というところに最近は落ち着きつつあります。


培養槽につけられた水槽の脳という思考実験がありますが、極端なところまでいくと、これが理想形、ということになります。


つまり、「自分自身が今、幸せと感じる体感」が人生の中でも優先されるのでは?というところです。


ところが、先述の通り、生産性をあげたところで、それは無限螺旋階段ですから、生産性を追求すればするほど苦しくなるというところです。幸せという体感を得られません。


ですから、生産性の向上ではなく、ベクトルの向きを変えないと幸せという体感に辿り着くことができない、ということです。


生産性をいくら上げたところで、その「生産性信仰」の根底にあるのは工業社会の発想ですから、単位時間内に機械をより多く動かせばより多くの製品が産出できる、というものに過ぎません。


でも、人間の思考とか発想とかって、そんなスポ根的な、機械的なものじゃないですよね。ということで、「生産性信仰」はちょっと待って、ということです。


スキマ時間の活用をやめて退屈をあえてやってみるとか、マインドフルネスとかが悪いという話ではなく、「生産性の向上、というだけで満足せず、その先があるのではないのか?」

ということです。


とか書くと、「おいおい、ついにあっち方面に旅立たれてしまったか」という感じになってしまいますが、結局行き着く先は方法論ではなく、その方法論の運用方法というか、目的の話になってくるので、いつかは辿り着くところ、ということです。


まとめ


「生産性の向上っていうけどさ、生産性を向上したところで走らされるスピードが速くなるだけで労働環境は過酷になる一方なんだから、なんかおかしくないですか?生産性の向上ってアプローチは単純労働なら肉体の限界までは可能だろうけど、創造性とかとかそういうジャンルでは無理筋では?」といったところです。


自己紹介

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sakurabar(さくらば)。1993年生まれ。修士(教育学)→中小企業でパソコンをいじる日々。ねこがすき。 お問い合わせはsakurabar0701あっとまあくgmail.comまで。 Twitter(@sakurabarss)のDMでも同じアドレスに通知が行きます。

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